日本山脈縦走の翌年から宗弘は、剱御前小舎の経営を手がけた。
 剱御前小舎は芦峅寺の村の共有財産で、その経営権を手に入れたのだ。
 当時家の隣だった、志鷹弥三太郎(「黒部の弥三太郎」:甲山五一氏著の主人公)が若い宗弘を誘い、共同経営を持ちかけたからである。
 宗弘にすれば弥三太郎は亡き父宗作の年代の人である。
  「あんま(宗弘を弥三太郎はこう呼んでいた。長男に対する愛称である。)や、わるも銭儲けること覚えんにゃ。(お前も金儲けを覚えろよ。)」と云うのが口癖で、
宗弘を可愛がってくれた弥三太郎だが、この人は生来の天衣無縫、飄々とした仙人の様な人だった。
 甲山五一氏の著作では、行方不明となっている時期は、実は「剱御前小舎の爺ちゃん」として、売店に何時も座っていたのである。
 子供だった私も、忙しい山小屋では時にこの「ヤソの爺」と一緒に寝かされることがあった。
 写真中央右から四人目が弥三太郎、その左が宗弘。昭和35年晩秋。


 さほど雄弁でもない宗弘だが、酒が一杯はいると人が変わったように面白おかしく話を始める。
 だから山を訪れる若い人たちがいつも宗弘の周りに群がって、「トオチャン」と慕われた。
 昭和三十五,六年頃。


 遭難救助でも佐伯文蔵を頭とする宗弘の年代の立山ガイドが、この頃は主力だった。
 現在その高名を馳せる富山県警山岳警備隊はまだ、装備もろくに持たぬ「乞食部隊」とからかわれる存在にすぎなかった。
 この時代の主力立山ガイドこそ、遭難救助隊の魁けだったのだ。
 左後、若き日の雷鳥沢ヒュッテ(当時剣山荘)親爺の満寿雄、剱沢小屋親爺の友邦、天狗平山荘の先代親爺守と宗弘。
 最前列帽子は、黒四ダム山荘(当時真砂沢ロッジ)先代親爺の甚太郎。
 昭和三十八年頃か。

inserted by FC2 system