立山の生活が続いたが、ガイドの仕事はめっきり少なくなっていた。
 自ずと叔父の五色ヶ原山荘を手伝う日が多くなっていった。
 そんな時、親友の富男から又誘いが来た。
 今度は自分が隊長を務めることになっている、読売新聞社主催の「日本山脈縦走隊」の東隊に参加しないかと云うものだった。
 四十数日間かけて青森県八甲田山から、富士山までを踏派するのだという。
 もちろん宗弘に否やはない。
 昭和34年のことである。-----Cont.


 昭和34年頃はようやく世の中も落ち着き、高度経済成長にさしかかる頃である。
 日本全国の自治体が、地元の観光産業の振興に力を入れ始め、新たな観光資源を発掘するのに躍起であった。
 この日本山脈縦走はそんな時代背景の中、「読売新聞社」がタイムリーに主催した企画だった。
 東隊、西隊と二隊の縦走隊が、各々青森県、山口県から入山、富士山で合流すると云うもので、東隊に参加した富男と宗弘には、
未知の山域を歩くのが面白くてたまらなかった。
 碓氷湖畔の売店で記念撮影に応じる。前列右宗弘、左富男。-----Cont.


 この縦走隊の行動は毎日読売新聞紙上に掲載された為その反響は大きく、行く先々で熱烈な歓迎を受けた。
 そしてその大歓迎の大半が、自治体をあげて催されるものだった。
 草津では、草津音頭まで披露しての大歓迎があった。
 力強くたくましい昭和の時代だったのだ。

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