初代 佐伯宗作

 我が家の初代、佐伯宗作。
 宗作は立山随一の名ガイドと謳われ、立山ガイドの黄金期に活躍した。
 大正13年には秩父宮殿下立山スキー登山のガイドに選抜され、その後も立山剱岳を中心に様々なルート
を踏派開拓し、その誠実な人柄は山岳ガイドとしてのみならず、多くの人々に愛された。
 昭和9年末からは京都帝大朝鮮白頭山遠征隊に請われて参加、その実力を遺憾なく発揮したが、翌昭和
10年の帰国後、5月4日、立山地獄谷で亜硫酸ガスの吹き出す穴に転落した、後輩ガイドを救出するためそ
の穴に飛び込み、救出はしたものの自らが力尽き命を失った。
 若干38歳であった。
 宗作の献身的な行為は、「山男の鏡」と当時から高く賞賛され、戦後も小学校道徳の副読本に載せられた。 

 平成22年11月、親爺は「親子三代山暮らし」のページをリフォームいたしました。
 以下に掲載する写真の中、写真下に
Lの表記があるものは大きなサイズでご覧頂けますが、なにぶん古い写真ばかりです。従いましてその撮影年月日、場所など
は出来る限りの考察を加え表記してありますが、決して完全なものでは御座いません事を付記いたします。
 

 
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 宗作は富山県中新川郡立山町芦峅寺に、明治30年(1897年)4月1日、父、仁次郎(にじろう)、母、葉(よう)
の三男として生まれた。
 父は芦峅寺一山衆の内、四社人の佐伯権右衛門家から分家した人であったため、その生家は「新家(しんや)」
と呼ばれ、現在も我が家の本家として村内にある。
 小学校を出た宗作はすぐ大阪に奉公に出された。当時の山深い村の三男坊など「えらず(要らずの転訛)」と呼ば
れたほどで、たとえ数年でも小学校に通わせもらっただけで有り難かったのだと言う。
 大阪の奉公先は飾り職の家で、何人もの奉公人がいる比較的大きな店だった。
 宗作の無口だが誠実で正直な人柄は主人やその家族からも愛され、非常にかわいがられたと云う。
 大阪の奉公先の宗作には何不自由ない生活が続いたらしい。

 (若き日の宗作15歳当時:大阪の飾り職の家に奉公中の撮影)
 

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 宗作の長兄、高貞(こうてい)は天才的な猟師として将来を嘱望されながらも、常願寺川で中州に取り残された村人の
救出にあたり、川に流され若い命を失ったがその兄と同じ血が、宗作にも流れていた・・・。
 長ずるに及んで、宗作の山人の血が騒いだ。何不自由ない大阪での暮らしではあったが、宗作は立山に惹かれる様
に芦峅寺に、立山に帰って来た。
 それがいつ頃なのか、奉公先はどこだったのか、今は孫の私にも分からない。
 僅かに祖母から寝物語に聞いた「あんまのじいじ(あんまは長男への愛称、じいじは祖父)」の話の断片を繋ぎ合わせ
て想いを馳せて見るばかりだ。
 芦峅寺の山里では、8歳年上の次兄栄作が宗作を待っていた。熊撃ちの名人として既に頭角を現していた栄作は、実
の弟である宗作の帰省を大喜びして迎えたと云う。非常に仲の良い兄弟だった。

 (別山乗越で二人そろった栄作と宗作。昭和5年の剱御前小舎建設時の写真。)

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  帰省した宗作は恐らく兄栄作や、大先輩の平蔵、八郎等に導かれ猟や山案内人としての実績を積み重ねていった
のだろう。宗作の山人としての天性は、大正中期から昭和初期に至る、立山ガイドの黄金期と呼ばれた時代の中で、大
きく開花していった。
 そんな中で、若手ながら将来を嘱望された宗作は、村の素封家の娘だったヒデを娶り、ヒデの祖父であった宝伝坊家
当主からはその屋敷地を半分分け与えられ、一戸を構えた。(現在の我が家である。)
 そして、大正12年冬の窪田他吉郎氏のスキーによる針ノ木越えのガイド、同年8月には岡部長量氏(学習院)の剱岳
八峰の初完全踏派のガイドを勤め、その立山山案内人(ガイド)としての評価を不動のものとしていった。
 この時宗作はまだ若干27歳であった。しかし順風満帆な宗作にも大きな悲しみはあった。ヒデとの間に生まれた長女、
次女を相次いで失ったのである。元来子煩悩な宗作の悲しみは非常に大きく、同じ悲しみに打ちひしがれているヒデと相
談し、村内の講~家から生まれてすぐ母を失った赤子、音二郎を引き取り、我が子のごとく慈しんだ。

 (大正12年夏、恐らく剱岳八峰の完全踏派直後に撮られたと思われる写真。赤子は音二郎。)
 
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 この写真は、八峰の完全踏派をした翌年、明大山岳部の馬場忠三郎氏を八峰にガイドしたときの写真で、同氏の
撮影である。
 馬場氏は当時の事を「山岳」第57年に、「剱岳・源治郎尾根・の由来と当時の思い出」として書いておられるが、
この写真はその抜刷に掲載された宗作の写真である。


 (大正13年7月10日八峰第2峰を登る宗作)
 
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 大正13年5月、秩父宮殿下の立山スキー登山の山案内人として宗作は、大先輩平蔵、八郎と共に選抜された。
 これは宗作にとってもこの上ない名誉なことであった。
 この時の秩父宮殿下の随行員には、槇有恒氏や、前年宗作と共に剱岳八峰の完全踏派を成し遂げた岡部長量氏
等が加わっている。

 (大正13年、秩父宮殿下の山案内人に選抜。左より宗作、八郎、平蔵。

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 大正14年、宗作夫婦は待望の長男を授かった。宗弘である。宗弘は養子の音二郎と共に、すくすくと育って行く。
 そして昭和2年には次男宗信を授かり、その後も昭和5年に梅子、昭和7年には三男宗彦を授かっている。
 
 (昭和2年宗信が誕生した直後の写真。右はヒデ、手を引かれている幼児が2歳の宗弘、抱かれている赤子は宗信、
宗信を抱いているのはヒデの母、ヤス。)

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 山案内人としての宗作は、今なお「立山随一の名ガイド」としての評価を受けていて、これは孫の私にとっても誠に誇ら
しい事であり、又有り難いことだと常々思っている。
 そして宗作は又希代の名猟師でもあったと伝え聞いている。(残念ながら我が父宗弘にはかなりその祖父の山男遺伝子
も伝わっていたようだが、私には僅かしか伝わっていないようだ・・・。)
 普段は子供好きで優しい宗作だが、いったん狩り山へ入るやその勇猛果敢な行動は他の追随を許さなかったと言う。
 今はともかく、立山ガイドの黄金期と言われた頃の山案内人は殆どが猟師でもあったのだ。

 (春の山に熊を追う宗作。昭和3〜4年頃?)

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 ガイド見習いの佐伯吉二少年(左端)を連れて夏山ガイド中の宗作。
 吉二は、宗作の愛弟子で将来を嘱望され、宗作亡き後を継ぐのは吉二しか無いと言われたが、彼も又この時には予期も
せぬ悲劇に出会う事となる。昭和4年頃。よもやま話し第6話 「古老吉さん」参照 

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 宗作を語る時、祖母ヒデがよく話してくれたエピソードがある。
 昭和初期の頃、他所村から村内の農家の手伝いに来るいわゆる作男がいた。少し甘いところがあったためその男の
本名など誰も知らず、「ペートコ」と呼び習わしていたという。皆からか軽く扱われながらも純真なペートコ氏はよく働き、
根雪を目前にするころ自分の村へ帰って行くのだが、それでも勘定とか計画性などは無縁であった氏は越冬物資に事
欠くような情けない状態になることが再三あったらしい。「このままでちゃ、冬、ママ(飯)喰われんですちゃ。」と肩を落と
す。そんな時宗作はペートコ氏を促し、村のあちこちの家に伴って、餅、米、勝栗、干し柿やあるいは幾ばくかの小銭を
この底抜けの善人のために喜捨してもらっていたと云う。
 その頃の宗作にはペートコ氏一人分の越冬物資など、訳なく買い与えるだけの力があったのだが、「そこがじいじの偉
いとこだちゃ。」決して自分一人が恩を着せるようなことはせず、皆に少しずつ助けてもらうことで、ペートコ氏に恩を着せ
ぬように配慮していたのだと祖母は語った。
 「熊をも手獲る剛勇無双の山男」も、実は繊細な心遣いの出来る優しい男でもあったのだ。

  (八峰をガイドする宗作。昭和4年頃。)
 
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  宗作は三男だが、弟が一人いた。末弟の兵治(ひょうじ)である。兵治はスキーの名手でもあり、山も強く、子供好
きな非常な好青年であった。今年85歳の父には叔父に当たる兵治だが、父にはこの叔父の記憶が僅かながらあっ
たらしい。「俺にカタカタ(幼児用の手押し車)を買ってくれた。ウサギのカタカタだったなぁ。」といつか語っていたことを
覚えている。
 しかしこの兵治も昭和五年の剱沢の雪崩事故でやはり若い命を山に散らした。先輩ガイドの佐伯福松と一緒に、
窪田他吉郎氏等4名を案内中の出来事で、この遭難事故により、剱御前小舎が建てられた経緯はこのHP「剱御前小
舎誕生秘話」に書いておいた。
 この後、昭和10年に宗作が地獄谷で遭難死し、「悲劇の宗作三兄弟」などと言われる様になったのだが、祖父宗作
の兄弟は四男一女であって、長男、三男、四男が皆山で命を失っている。しかも宗作のすぐ上の姉ソメの連れ合いは
大正15年1月に厳冬期剱岳初冬登のガイドを勤めた佐伯亀蔵であり、この亀蔵も初登から1ヶ月も経たぬ同年2月に
は真川で雪崩にやられ帰らぬ人となっている。一人、次兄栄作(えいさく)が残され、新家を襲ったが、栄作も還暦を待
たず病没した。
 (宗作の末弟兵治。昭和3,4年頃の撮影。兵治の唯一の写真である。)

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  宗作は春夏秋冬を問わず、どんな難ルートでも立山をガイドした。
 超人的な体力と、野生的な天性の山の感は、古い立山ガイドの語り草であった。

 (昭和4年初冬の剱岳山頂。)

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 宗作は熊狩りからウサギ猟に至るまで名人と呼ばれた。
 捕らえた獲物は登山中の貴重な蛋白源。ガイド中の客人にもウサギ汁を振る舞った。

 (昭和5年頃弘法小屋にて) 

 
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 当時の山小屋は、炊事も暖房も炭と囲炉裏がすべてである。
 暖を取る囲炉裏端では、お客様の求めで猟の話をすることもあった。
 普段は無口な宗作だが猟の話となると、生き生きと語り始めたという。
 
 (昭和5年頃弘法小屋にて)

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 警察官が一緒に写っているところを見ると当時の皇族あるいは華族の方を案内したときの写真だろう。
 ヒデの弟友治や、八郎、利夫などと言ったガイド衆も写っている。

 (昭和5,6年頃の撮影
 
 
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  弘法平にて、昭和6年頃。飼いうさぎを抱く宗作。
 ガイド中のつかの間の休憩時にお客様が撮ってくれた一枚だろう。
 
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 立山ガイドはスキーをいち早く登山に取り入れた。左側宗作、右は兄栄作。昭和7年頃の春山であろう。
 
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  初春の狩り山に熊を追う宗作。人津谷上部の稜線直下。昭和7年頃。
 
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 早春の弥陀ヶ原をスキーでガイドする宗作。昭和8年頃。 
 
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  昭和8年の春先。雄山山頂から剱を背に写真に収まる宗作。



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 昭和8年剱御前小舎。宗作は、後列左から2人目暗くて見づらい。前列右より3人目の老婆は宗作の母。
又右より5人目の眼鏡の人が剱御前小舎の創立者佐伯義道で私の母方の祖父である。






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 宗作は昭和9年、京都大学白頭山遠征隊に選抜された。
 この遠征隊は日本で最初の海外遠征登山隊であり、又初の極地方登山を試みた事でも有名であるが、
メンバーも西堀栄三郎氏や今西錦治氏と言う山岳界をリードする人々で、宗作は、彼らの期待を裏切るこ
となく、超人的な働きを見せ立山ガイドの名を不動のものとした。

 昭和9年白頭山BC.にて。  
 







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 厳冬期の白頭山山頂。
 この登山は、シベリア寒気団が頭上に来て、氷点下48度(摂氏) が記録されたという。

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 この登山から帰国してわずか数ヶ月後、我が家の初代佐伯宗作は、劇的な最後を遂げ、立山に逝った。
だから二代目の宗弘には、父親の記憶が僅かしかないと言う。
 

 が、二代目宗弘もやはり立山に生きたのだ。

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