二代目 佐伯宗弘 我が家の二代目、佐伯宗弘。 名山岳ガイドと謳われた佐伯宗作の長男として生まれた宗弘は、満九十歳の天寿を全うし、平成 二十八年四月九日、大往生を遂げた。 昭和三十一年に第一次南極観測隊員に選抜され、オングル島に上陸、設営隊員として昭和基地 設営に活躍する。 昭和三十四年には読売新聞社主催の「日本山脈縦走」に、また親友富男に誘われ参加し東隊隊 員として四十三日間をかけて青森県八甲田山から富士山までを走破。 剱御前小舎の経営に携わったり、立山アルペンルート等の山岳工事に携わった。平成三年立山 ガイド協会初代会長に就任、平成二十年退任。満八十歳にして大熊一頭を一発の銃弾で仕留める と云う豪傑ぶりを示すも、その後は穏やかな余生を送った。 |
大正十四年九月十四日、宗弘は立山村芦峅寺で宗作、ヒデの長男として産声を上げた。 その頃、宗作夫婦が養子としていた二歳年上の音二郎と共に、何不自由なく慈しまれすくすくと育った。 昭和二年には次男宗信も生まれ、継いで梅子、宗彦と生まれ、宗弘はその弟妹の頭として、かなり我が儘 いっぱいに育ったらしい。 その腕白ぶりは凄まじく、ヒデが厳しく怒ろうとすると、宗作は穏やかにそれを止め、決して宗弘や子供たち を叱ることはく、ただ穏やかに諭したと云う。慈父という言葉そのままの穏やかな優しい父であったのだ。 しかし宗弘の幸せは小学校の四年生までしか続かなかった。 突然の、父宗作の遭難死が、まだ幼い宗弘を頭とするこの人もうらやむ程の幸せな家族に突然襲いかかっ たのである。 「宗弘や、鉢の花に水やっておけや・・・。」これが父宗作の宗弘にかけた最期のことばだったと云う。 |
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父宗作は、人を助けるために自らの命を捧げたのだ。 遺児である宗弘たちに、周囲の目は温かかった。立山山案内人組合が中心になって石碑が建てられた。 碑の揮毫は槇有恒氏である。 碑の除幕式では伯父の栄作が介添えを務めた。 |
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物事が分かる歳になった宗弘。 高等科を卒業して不二越工業に勤め、夜間学校に通った。 父の思い出はあったものの、父が声をかけてくれようはずもないが、事あるごとに父を想った宗弘である。 |
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宗弘は復員し、立山に戻った。昭和二十年九月のことである。 |
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戦後の混乱も少しずつ収まり、立山にも登山者が戻り始めた。 |
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立山は宗弘をしっかりと受け止めてくれた。 立山に帰ってきたお客様に若いガイド宗弘の名も少しずつ覚えてもらえるようになって来た。 |
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そんな宗弘だが、昭和26年暮れには芦峅寺生え抜きの一山衆、日光坊の三女稲子を娶った。 翌昭和27年には長男和起、昭和31年には長女多恵子が生まれ、宗弘は二児の父親となっていた。 |
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当時の南極観測隊への国民の熱狂ぶりは、その時4歳の私もおぼろげながらも覚えている。 |
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昭和31年11月8日、国民の期待を一身に集め、宗谷は晴海埠頭を出発した。 人跡未踏の南極を目指したのだ。 宗谷はオングル島に近いリュッツフォルム湾内の結氷に接岸した。 |
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宗谷の接岸した場所から、ルートを偵察しオングル島に上陸する。 そのルートファインディングにも立山ガイド達が活躍した。 |
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この立山ガイド衆は、5人だけがオングル島で幕営生活を続け、宗谷を拠点に物資を輸送する本隊の補給を受 けながら昭和基地の設営に専念した。 西堀副隊長の「南極という、酷寒の地で縦横に活動できる立山ガイドたちが絶対必要だ。」と云う持論は見事実証 されたのだ。 |
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立山五人組もその力を遺憾なく発揮し、基地の建設は着々と進んだ。 | |
昭和基地設営を終え、越冬隊を残し宗谷はオングル島を離れ、帰路についた。 が、そこは既に結氷帯が広がり南氷洋は閉ざされつつあった。 |
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帰国した宗弘は立山に戻った。 南極帰りの立山ガイドの人気は絶大で、富山県や立山町などからも奉職の話が舞い込んだが、宗弘は 立山での生活を選んだ。 |
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昭和34年、富男から誘われた宗弘は読売新聞主催の「日本山脈縦走団」東隊に隊員として参加した。 | |
日本山脈縦走の翌年、宗弘は剱御前小舎の経営に着手した。 ちょうど昭和三十年代の大登山ブームを背景に、多くの登山者が立山を訪れるようになっていた。 |
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この頃から三代目和起も立山をうろつき始める。 和起の立山での記憶はこのあたりから始まる。昭和36年頃。 |
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昭和40年代に宗弘は山小屋の経営から一端離れた。 しかし立山を離れることはなく、小屋の従業員だった音二郎(強いボッカとしてその名を知られていた。)以下 数人を連れ、当時、立山アルペンルートの工事が盛んだった黒部に飛び込んだ。 |
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年は巡り、還暦を遙かに過ぎた宗弘は初代の立山ガイド協会会長に就任していた。 |
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晩年の宗弘は山岳交流でネパールへ二回、韓国、北朝鮮、中国をそれぞれ一回訪問した。 その内の二回(ネパールと韓国)は立山ガイド協会長としての訪問,招待だったが、北朝と中国の訪問は 白頭山登山が目的だった。 (この項は未完成です。現在写真を探しております・・・・・) |
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平成十八年南極観測五十周年の式典が東京で行われたが、長男の長女、孫の安寿紗に伴われ宗弘は東京に 向かった。そして、これが公の席に顔を出した最後となった。 剱御前小舎も、和起が任されて既に三十三年、三代目和起もまた立山に生きている。 |